古文で「いとおかし」は「メチャおもろい」ではなく、「非常に趣がある」です。「いと」は使われなくなりましたし、「おかし」は意味がすっかり変わりました。中国語でも時代の変遷と共に死語になったり、意味が全く変わってしまった漢字があります。それが、日本では現役続行中だったりします。
少年
少年易老学难成,一寸光阴不可轻。/少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず
で有名な「少年」。現代では「年轻人」です。相当硬い表現として官報などで「少年儿童」のような表現で出てくることはあります。現代中国語では、歳は “年纪 nián jì” や “岁数 suì shù” を使い、”大小” で表現します。”多少” ではありません。
川
人心险于山川,难于知天。/人の心は山河より危うく、心を知ることは天を探るよりも難しい。《庄子·杂篇·列御寇》
短文で人生の全てを語り尽くすような中国語の古詩は素晴らしいです。
ところが、この「川」の字は日本ではバリバリの現役である一方、中国では “四川省” などの地名に残る程度で、「かわ」といえば、“河” の字を使います。日本では「河」は幅が何キロにも及ぶような大きな川を想像してしまいますが、中国では小川でも “河” を使います。今では、四川省のような地名で使われるのみです。
曰
論語で出てくる “子曰” の “曰”です。日本でも、「誰それ曰く」という使い方を今でもすると思いますが、現代中国では専ら “说” です。”曰” は完全に死語です。
子曰:“吾十有五而志于学,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳顺,七十而从心所欲,不逾矩。”/子曰く「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがう。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず。」
論語と言えば、この言葉でしょう。重みがあります。
吾
この論語の有名な句に使われている “吾” も死語です。現代中国語では “我“ です。現代日本語ではこの漢字を「我(われ)」と読んで一人称の代名詞として使います。といっても、文語ですが。
「宮本武蔵」などで有名な歴史小説家である吉川英治の言葉に「我以外、皆我師(われいがい、みなわがし)」というものがあります。日本では、一人称複数形の「我々」は現在もよく使いますが、一人称単数形の「我」の方は、こういう重みのある文語表現としてのみ辛うじて命脈を保っています。
皆
「我以外、皆我師」の中にある “皆” も日本語では現役続行中ですが、中国語では死語です。論語に出てきます:
人皆有兄弟,我独亡。/人は皆兄弟あり。我独りなし。
今の日本語の「皆」と全く同じ意味です。古代中国では “皆” が使われていましたが、現代中国では “都“ です。現代中国語にすると、以下でしょうか:
人家都有兄弟,我一个人没有。
“我” は古代から現代まで一貫して一人称代名詞として使われてきたことが分かります。
赤
近朱者赤,近墨者黑。/朱に交われば赤くなる、墨に交われば黒くなる。
日本でも文句なしに有名なことわざです。昔は中国でも「赤」といえば、“赤” の字を使っていたことが偲ばれます。しかし、今では専ら “红” です。“赤” は “三国志” に出てくる “赤壁之战 /赤壁の戦い”のような歴史もしく地名で使われる文字としてか、”赤贫/赤貧” や “赤手空拳/徒手空拳“で使うような「全く何もない」という意味でしか使われなくなりました。
见,闻
一番典型的なのが、“见“ と ”闻” でしょう。どちらも日本語の「見る」や「聞く」の意味では使わなくなりました。古代中国では、
今人不见古时月,今月曾经照古人。/今人は見ず古時の月、今月はかつて古人を照らせり 李白《把酒问月·故人贾淳令予问之》
朝闻道,夕死可矣。/朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり 《论语·里仁篇》
などと使われていました。何とも味がある言葉ではないですか。
ところが今では、“见“ の方は “再见!/またね!“ に代表されるように、「会う」の意味で使いますし、 ”闻” に至っては、“闻好的气味/いい香りがする” のように「匂う」意味で、五感の感覚器自体からして、耳から鼻へと鞍替えしてしまっています。”新闻“ /ニュースのような言葉に昔の面影が残っています。
普段使いのこれらの言葉が、どうしてここまで大きく変わってしまったのか不思議です。
朝
先ほど出てきた下の例文でもう一つあります。”朝“です。
朝闻道,夕死可矣。/朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり 《论语·里仁篇》
これも今や中国語では専ら“早上 zǎoshang”を使います。“朝廷”は日中どちらも同じ意味で使います。歴史的背景があって近代の清朝まで続いているので、この使い方は変わっていないのでしょう。
現在では方向や場所を指す場合の前置詞として“朝”は使われます。と言っても、似たような意味を持つ“向 xiàng”、“往 wǎng”の方が圧倒的に使用頻度が高いです。これらの前置詞は動的な「向かって」というイメージです。一方、”朝 cháo“は静的な「向いて」という意味合いが強いです。とは言え、このような静的な意味合いの場合は”对 duì“を使う方が一般的でしょう。
犬
文犹质也,质犹文也。虎豹之鞟犹犬羊之鞟。/ 文とその質は車の両輪のようなもの。両方揃って初めて意味がある。そうでなければ、虎や豹の皮も犬や羊の皮も同じ価値ということになってしまう。《颜渊篇》
現代中国語で犬は“狗”です。但し、犬の種類を指す時には今も使われます。”斗牛犬 dòuniú quǎn/ブルドッグ” 、”贵宾犬 guìbīn quǎn/プードル”などです。”导盲犬 dǎománg quǎn/盲導犬”のような犬の役割を表すときも”犬”は健在です。
言葉も進化する
「中文の簡体字化で一つになった違う漢字たち」の回で紹介した漢字たちは、どちらかというと短期間に人為的に変えられてしまった例でした。しかし、そうでなくても、中国四千年の古今悠久の歴史の風雪に晒されて、言葉も生物と同じで、適者生存の厳しい自然淘汰を経て、古代から現代へと受け継がれているのだと改めて思います。
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