日本語と同じで、中国語も旁(つくり)が同じなら読み方も同じです。同音語が多いと区別がつかなくなるので、声調で区別しています。この点は日本語より優れていると思います。とは言え、声調は4つしかないので、区別できるといっても限界があります。どうやって区別しているのでしょう。
日本語は偏(へん)と旁(つくり)だが、中国語は形旁と声旁
日本語で部首は偏(へん)と旁(つくり)という言い方をしますが、中国語では形旁と声旁という言い方をします。文字通り、形を表す役目の部分と発音記号になる部分からなっています。
日本語の漢字でも中国語の漢字でも、中国語でいう形旁に当たる部分が大まかな意味を表していて、声旁に当たる部分がどう発音するかを示しています。そして、形旁の大まかな意味と声旁が示す意味が組み合わさって、その漢字の意味が出来上がっています。
例えば、細胞の「胞」です。月偏が肉体という大まかな意味を示して、包という旁が音を表すとともに何かを包むことも意味して、その2つが組み合わさって、有機体で包まれているようなものを「胞」が表してことが分かります。
声旁は漢字の区別に声調の違いを使っている
ひと頃、声旁が同じ漢字を集めてみたところ、なるほど声調で区別するようになっていることに納得しました。とは言え、声調は4つしかありません。どうしているのか、実例として ”包” を見てみましょう。
包(bāo)ー包む。例:包裹(bāoguǒ)/小包;桶包(tǒng bāo)/バケツ型のショルダーバッグ
抱(bào)ー抱く。例:抱歉(bàoqiàn)/ごめんなさい;拥抱(yǒngbào)抱擁
饱(bǎo)ー飽きる。例:吃饱(chī bǎo)/満腹;饱和(bǎohé)飽和
一文字で使う場合は日常会話で使う動詞が多いので、音声で聞き分けられるように声調で区別がつくようにしているのでしょう。一声、三声、四声まではよいのですが、なぜか二声は使われていません。それは置いておくとすると、ネタ切れのため同じ一声が使われて、
胞(bāo)ー同胞。例:同胞(tóngbāo)/同胞;细胞(xìbāo)/細胞
があります。
他にも無気音の “b” と有気音の “p” で区別する方法も使っています。これで、x 2 のバリエーションが増えます。
咆(páo)ー吠える。例:咆哮(páoxiāo)/吠える
跑(pāo)ー走る。例:长跑(Chángpǎo)/長距離走;白跑(bái pǎo)/無駄足
泡(pào)ー泡。例:泡温泉(pào wēnquán)/温泉に浸かる
“pao” の方はなぜか一声がありません。四声の “pào” と読む漢字が多く、アワビを意味する「鲍」、できものの意味の「疱」がそうです。どちらも漢字一文字の単独では使われず、「鲍鱼」や「水疱」と二文字の単語で使われるので、同音語を避けられるのでしょう。
形旁があるので、組み合わせる漢字の語呂が変わる
意味を表す形旁があるので、同じ読み方をする漢字でも、意味が違ってきます。そうすることで、文脈で区別することができます。二文字の単語になるとなおさらです。
例えば先ほどの例で、包(bāo)は形旁がありませんが、胞(bāo)は形旁があります。かたや「包む」ことに関係していて、かたや形旁として「月」があるので、「包む」と言っても肉体に関わってきます。意味の違いから、使われる文脈で区別がつくでしょう。
さらに、二文字の単語にする場合に包(bāo)は「包む」ことに関わる漢字と組み合わせて、包裹(bāoguǒ)などとなる一方、胞(bāo)の方は细胞(xìbāo)などとなって、音声も違えば、まるで違う話題を話していることも分かります。
また、二文字の単語にした場合、音声面でもより区別がつきやすくなります。四声を上手く使えば、たとえ前の漢字同士と後ろの漢字同士のそれぞれが同じ読みになってしまった場合でも、2つの漢字4 x 4 の 16 通りの読み方に分けられます。同音語をかなりの程度避けることができるのが分かります。
例として、「桶包(tǒng bāo)/バケツ型のショルダーバッグ」と「同胞(tóngbāo)/同胞」はどうでしょう。前の漢字の読みは同じですが、声調が違うので、区別がつきます。
しかし、都合がよい時ばかりではありません。「同包(tóngbāo)/同じ包み」の場合は、「同胞(tóngbāo)/同胞」と全ての読みと声調が同じになります。こういう場合は、文脈で区別するより他に手がありません。
改めて漢字の凄さを思い知りました
アルファベットは表音文字で、漢字は表意文字と対照的に比較されることがありますが、こうして見ていくと、漢字は表音文字でもあることが分かります。一文字一文字が最小単位の音を表すアルファベットとは異なりますが、中国語でいう声旁を使って音も表しているわけです。
ですので、正しくは表音表意文字とでも呼んだ方がいいのではないでしょうか。以上の事情は、日本語の漢字にも当てはまります。改めて漢字の凄さを思い知りました。
しかし、20世紀に漢字は危うくなくなりかけたことをご存じでしょうか。実際、ベトナムはフランスによる植民地統治下で漢字が廃止されました。朝鮮半島は南北ともに漢字を捨てて、ハングルに一本化しました。
残るのは中国と日本だけです。その本家本元の中国も一時期、魯迅が「漢字が滅びなければ、中国は滅びる」といい、毛沢東の頭にもよぎったわけですが、結局、ピンインが導入されたものの補助的に使われるのみで、漢字は画数を減らした簡体字としてしっかり生き残りました。
日本はというと、GHQ に廃止されかけたものの辛くも免れて、今も香港や台湾で使われる由緒正しい繁体字とも簡体字とも異なる独自に簡略化した漢字を使っています。
漢字にひらがなにカタカナ、何だったらアルファベットも使い、一見節操がないように見えますが、文化の結節点だからということもあります。さすが八百万の神々の国でいいじゃないですか。
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