“待”と“呆”はそれぞれ「待つ」と「呆ける」で原義は相異なりますが、“待在”と“呆在”はどちらも「一時的に滞在する」という意味です。“待在”は分かりますが、“呆在”の“呆”は実は“保”から来ているそうです。しかし最近では、“呆在”は最近の中国では「呆然とその場に留まる」という印象が強いそうです。
“待”:「待つ」の意味から「その場に留まる」へ
“待”はぎょうにんべんに「寺」と書きます。百度百科によると、ぎょうにんべんは小股で歩くことを意味し、「寺」は政を行う場所を意味したそうです。列をなして順番待ちをして、朝廷にお伺いを立てるような意味合いでしょう。そこから、古代中国から現代中国、そして日本でも同じ意味の「待つ」が生まれたとのことです。この意味では第四声で読んで”dài”です。
ここからは想像ですが、地方から出てきて朝廷に陳情するのに、宿に泊まって翌朝に朝廷に赴く必要もあったのではないかと思います。そうなると、「待つ」というよりもやや長い時間がかかるので、滞在や逗留の意味合いが出てきます。
ですので、“待在”というと、その場に留まるということで、“台风就来了,我明天整天会待在家里 / 台風がじき来るので、明日は一日中家にいる”となって不思議ではありません。この意味の時は第一声で読み、”dāi”です。
“呆”:“保”からにんべんが落ちて「その場に留まる」へ
そもそも「呆ける(ほうける)」の意味の“呆”から滞在するという意味が生まれるかというと、さすがに風が吹けば桶屋が儲かる式に考えてもちょっと無理がありそうです。
百度百科によると、“呆”は口に木がくっついてできた象形文字だそうです。なるほど試練をくぐり抜けて人間になる前のピノキオのように、どこか取って付けたような未熟さというか、魂が宿っていない感じがします。
「呆ける」の意味の“呆”とは別に、「保つ(たもつ)」の“保”が起源とのことです。“保”は大人が子どもを抱きかかえる様を象形文字にしたものとのことです。にんべんがなくなる、つまり、大人がいなくなって子どもが置き去りにされた様子を表わすそうです。ここから「その場に留まる」という意味が生まれたようです。
2つの意味で成り立ちからして違うのであれば、声調を変えてほしいところですが、“待”と違ってどちらの意味でも”dāi”と第一声で読みます。これがますます2つの意味を混同させる元凶にもなっているのでしょう。
最近の中国人の感覚では“呆在”は「呆然とその場に留まる」
ですので、最近の中国人の感覚では、“呆在”は「呆然とその場に留まる」となってしまいます。現在習っている中国人の先生曰く、「滞在する」、「逗留する」の意味では、“呆在”は使わないそうです。「呆ける(ほうける)」というイメージが強いためです。専ら“待在”の方を使うそうです。
話し言葉では、“待在”も“呆在”もどちらも”dāi zài” と発音するので、話している人がどちらを念頭に置いて話しているか分かりませんので、実用上何ら問題はないわけです。
時代が下るにつれて、意味が変わってくるのはどの言語でもありますね。ネイティブスピーカーの多くが持つ主流の感覚で話した方がいいのでしょう。
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