通常の声調の場合と軽声で読む時とで意味が全く違ってくる中国語の単語があります。文字にすると文脈でしか見分ける手段がありません。軽声にあまり神経質にならなくてもよいという人もいますが、要注意です。軽声の存在感が「軽」くないということです。
意味がまるで変わる単語:东西,地道,兄弟
基本単語の一つ “东西” が典型的な例です。“dōng xī” と “西” を通常の第一声で読むときは、日本語と同じ方角の「東西」を意味します。一方、”dōng xi” と “西” を軽声で読むときは、「もの」を意味します。
我去超市买东西。/私はスーパーマーケットに行って、東西を買います買い物します。
「東西」はスーパーマーケットで買うものではないので、書いてあっても間違うことはないでしょう。ところが、次の例では “东西” という銘柄を意味している可能性があり、迷います。
我去股市买东西。/私は株式市場で何か買います。/私は株式市場で「東西」(という銘柄の株)を買います。
こういう時に、話し言葉であれば、通常の声調か軽声かを聞き取って正しく解釈することができます。
“地道” も定型的な例です。“道” を “dào” と通常の第四声で読む場合は、「地下道」の意味です。軽声で “dao” と読む場合は、ご当地訛りなどの「ご当地の」という形容詞を意味します。下の例文では、文脈もさることながら、形容詞になっていますし、「ご当地の」の方を意味することが簡単に分かります:
我的关西方言说得很地道。/私が話す関西弁は本物です。
ところが、下の例だとどうでしょう。「地下道」とも「ご当地の」とも意味が取れなくはありません。
地道挖掘技术/地下道掘削技術/(古くから伝わる)地元の掘削技術
お次は “兄弟” です。“弟” を *dì“ と通常の声調で読むと、日本語の「兄弟」と同じ意味になります。これが、*di“ と軽声で読んだときには、『三国志』のメインキャラクターである劉備、関羽、張飛の3人の義兄弟関係の間で「おい、兄弟!」と語りかけるような感じで相手を指す言葉になります。これも日本語の感覚に近いです。軽声の方の “兄弟” が相手に対する呼称なので、こちらは文脈で迷うことなく、はっきりと区別がつきそうです。
軽声化すると、意味が転じるということか?
今習っている中国語の先生によると、道教の創始者 “老子 ” は “lǎozǐ” と通常の声調で読むのに対して、軽声の “lǎozi” は、日本語の感覚でいうと「俺様は…」と自分を指して言う場合に使うそうです。「俺様は…」のような踏ん反り返った物言いを、道教の思想家、老子は決してしなかったと思いますが、軽声化することで意味が様変わりしています。
こうして、“东西”,“地道”,“兄弟”,“老子 ” の4つも例を見ていくと、最後の文字の声調が軽声化することで、意味が転じるという法則性がありそうに思えます。
軽声は普通語の元になった北京語などの北方方言なので、あまり気にしなくてもよいとおっしゃる方もいます。現に、台湾語では軽声がないので、軽声は単なる方言の一つを普通語に取り入れただけという見方もできます。『ビジネス中国語なんて超簡単! 最短最速で上達する中国語学習法』(高橋 勇進 著)を読むと、「何だそうなんだ」と肩荷が下りた感じがしました。
普通語と台湾語との違いに関する論文を少し読んでみると、台湾語だけでなく広東語や上海語も軽声はあまり使われていないことが分かります。ただ、昨今の中国本土の目覚ましい経済発展によって、特に北京の若年知識層の間では、軽声を使う方が洗練されたイメージを持つという意識に変わってきているようです。
しかし、通常の声調と軽声とで意味が異なる例にいくつも出くわすと、軽声がもつ第5の声調としての存在意義を感じずにはいられません。「四声」といいますが、「いやいや、本当は五声でしょう」といいたくなります。軽声の存在感は「軽」くないということを肝に銘じましょう。
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